御祭神

御祭神

学問の神様
菅原道真(すがわらみちざね)

敦賀の礎を作った人物
藤原利仁(ふじわらとしひと)


敦賀天満宮は、
菅原道真公と藤原利仁公を合祀する
日本で唯一の社です。

御祭神 藤原利仁について

敦賀の礎を築いた藤原利仁公

藤原利仁公は敦賀の豪族であった有仁の娘婿になり、
ここ粟野の地に住み着きました。この地は高台であったため、
敦賀の端まで見渡すことができる最高の地でありました。
830年頃には雨谷を抜け滋賀のマキノに抜ける
道があり義父有仁公とともに交易を行っていました。
現在の敦賀の礎を作ったと言っても過言ではない人物です。

藤原利仁の史料

全国の「齋藤」姓の始祖

敦賀天満宮の御祭神である藤原利仁は、全国の「齋藤」姓の祖となる人物です。
越前国から始まり加賀・能登と勢力を伸ばし、全国に齋藤氏の勢力を伸ばしました。

系譜図

「斉藤」姓は、平安時代中期に藤原利仁の子である叙用が、斉宮頭に命じられて
「斉宮頭藤原」を縮めて斉藤氏を呼称したことが始まりです。
斉藤氏は越前・加賀・能登・越中・越後など、北陸地方に多く繁延し、武蔵・美濃の
ほか鎌倉・室町両幕府の奉行人をも輩出させました。
もともと利仁は越前国を本拠としたので、孫吉信の三男である伊博以降が利仁の
勢力を継承発展させて越前斉藤氏になりましたが、嫡宗の吉信・忠頼父子が
加賀介になったため、忠頼以降と弟重光とは加賀国に下って加賀斉藤氏となり、
忠頼の次男則高の曽章直は能登国まで勢力を延ばしました。

藤原利仁と「芋粥」の逸話

885年頃、藤原利仁公が京都の藤原基経に仕えていた時のことです。
主人(基経)宅で大饗宴のあとに、五位の貴族が宴会の残り物の芋粥をすすり、
「芋粥をたらふく食べてみたいなぁ」とつぶやきました。
その当時、芋粥は銀のひさげに入れて出されるほどの高級なデザートでした。
そのつぶやきを聞いた利仁公は
「それでは、飽きるほど食べさせてあげますよ」
と言って貴族を敦賀の館に招待して芋粥をふるまい、「おもてなし」文化を創出しました。

現代まで受け継がれる芋粥

「利仁と芋粥」の平安時代の逸話は、
明治時代に芥川龍之介の小説「芋粥」の題材となりました。
そして現代では地元敦賀市の伝統料理として伝わり、
1000年以上の時を超えて地域に親しまれています。

芋粥どら

芋粥どら

芋粥と利仁公も食したというあわでつくった「あわもち」をあわせ名物芋粥どらを完成させました。地元粟野でとれた山芋を使用し手焼きで焼き上げ、あわと山芋の絶妙な味わいが特徴です。

芋粥もちパイ

芋粥もちパイ

芋粥と利仁公も食したというあわでつくった「あわもち」をあわせ名物芋粥どらを完成させました。地元粟野でとれた山芋を使用し手焼きで焼き上げ、あわと山芋の絶妙な味わいが特徴です。